徳之島と横浜港とのご縁

昭和28年12月25日に徳之島・奄美群島は日本に復帰、その陰に横浜港とのご縁が

大東亜戦争時の話しですが、
沖縄を取り巻いた連合軍の機動部隊から飛び立った艦載機は長期にわたって執拗に島々を銃爆撃しました。
特に奄美大島の名瀬と南部の古仁屋のような規模の大きな町は焼け野原になり、沖永良部島や徳之島は、機銃掃射で多数の住民が犠牲になりました。

終戦後も、奄美の人々は苦難の道を歩みました。
沖縄と同じように日本本土から切り離され、米軍政下に置かれたのです。
しかも、軍事的価値がないことから物資や資金が沖縄に集中し、奄美は取り残された状態になったそうです。
人々は食糧不足で飢餓の寸前にまで追い込まれ、拿捕される危険を冒して黒砂糖と食糧などを交換する「密航」でなんとか生き抜いたのです。
そんな時に、このままではいけないと日本復帰運動を先頭きったのが徳之島出身の泉芳朗先生でした。

『日本に帰りたい』という99.8%の署名

昭和25年のある日、横浜港に密入国の船が辿り着きました。
その時に、奄美大島から密入国して神奈川県庁で働いていた現在では追浜駅にある湘南病院の故田中達三理事長は、その当時に県庁で働いていた奄美出身の方々と、その船から奄美・徳之島の14歳以上の島民の『日本に帰りたい』という99.8%の署名が集まり、それを受け取り国会に届けました。

昭和28年12月25日に奄美・徳之島の人達は日本に復帰

それから3年後の昭和28年12月25日に、私の祖母や父や母達、奄美・徳之島の人達は日本に復帰しました。
世界の歴史の中で、争いを起こさず、一滴の血も流さずに領土が返還されたのははじめてな事だと聞いております。
今でも、奄美には、
『横浜港に着くまでは、命は捨てても、義理は捨てるな!』と島唄があります。

これは、命がけで横浜に密入国して署名を届けた時の想いが語り継がれております。
大相撲の濃い胸毛と太い眉毛で人気を博した3代目の朝潮太郎は、私の故郷・徳之島の出身です。
昭和23年の10月場所で初土俵。その当時徳之島は米軍の占領下にあったので兵庫県の親戚を頼って貨物船に忍び込み密航。奄美・徳之島が返還されるまで兵庫県出身として土俵に上がっており、故郷奄美の返還運動にも参加し奄美返還後は鹿児島県徳之島出身として相撲をとりました。

この歴史については、実は、残念なく事ですが、徳之島では教えて貰う事はなく、結婚して横浜で暮らし、横浜市会議員選挙になって出会った故田中達三先生に教えて頂き知り得ました。
最近になって、復帰運動をしていた祖母の署名が徳之島役場に展示されていたとの事で徳之島在住の妹が写メ撮って送ってきてくれました。

これからも、徳之島出身を
誇りに横浜で明るく、楽しく、元気良く働いてゆきます❣️

横浜市会議員:高橋 のりみ

活動報告

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